明確な分け方(心理編)
使える人間、使えない人間という分け方がある。
・・・というか、前の記事で書いた超有名人が言っていたものなんだけど。
仕事をやるヤツ、やらないヤツに分け、やらないヤツから仲間を守る・・・なんてカッコイイこと言ってくれる。
しかし、乱暴な切り方だよなぁ。
使えないヤツからって何だよ?
ビョーキでも使えないヤツなんて言われるのかしら?
死んでも使えないヤツと言われるのかしら?
ここは陰湿な国ヌポン。ビョーキや死んだのはビョーキなったヤツが悪いとか言いそうなのが目に見えて分かるわ。
弱ったヤツを救わないね。
目に見えない身体病ならいざ知らず、分かりにくい病いを持っていたら、スタンダードな扱いを・・・フツーに動けるだろ!みたいな扱いがやってくるのよ。
ハンディ持ちも見た目では分からなくなった。
Dr.養老は、いまは脳化(意識化)が強いから、自然(≒身体)不都合なものは隠す、ということらしいが、世の中の暗部は無いものにされやすいのだろう。
それにしても、超有名人のあの人、サラッと言ってくれる。
たぶん、これがトラムプ前のかの国なら、弱者救済のキャンペーンか何かをしていたんだろうが、バイ〇ンになってから、強がりがヌポンでも言えるのだろうか?
少しは優しくなってもいいように思うが。
ハッキリ言えば現世には能力などある。
それが一様化しているからいけない。
カネになる能力がチヤホヤされる。
働いてくれれば何でもいい。
そう、何でもいい。
仕事ができるなら、多少の欠点は目をつぶる。
また、人格に欠陥があったり、粗暴、口が悪いなどでも、「ホントは彼、優しいの♡」みたいなノリと流れで悪質な点は見た目、浄化されてしまう。
むろん、悪質な点は地下に潜り機会があれば、地上に上がって時々、悪さをするのだが。
そういや、河合某は守りが弱くなった(≒母性)と言ったが、自然…特に人間活動において「どうしようもない」部分は無視どころか、無い扱いをされるのだから、いまはバランスが悪い。
師匠などは現金なものでブログにちゃっかり、儲け種を仕込んでいる。
野外好きだから、キャンプ用品をリンク先として、貼り付けている。
(´・ω・`)「買わんよ、日常で実用的でない」
やるなら、テスト…気軽に試せるようなものでいかないと、買っても納屋に放り込む。
まぁ、それもあって動画の評価性を非表示にしたのだけど、やっていることは・・・飼い鳥の前で焼き鳥を喰う。
野暮話③
まえに、師匠は飼い鳥の前で焼き鳥を喰うと書いた。
「倫理二問題アリ」というのが多かろう。
しかし、角度を変えればそれは人並みに思える。
どうしようもないとして、物事を切り捨てているのは無数といるだろうし、それによって日常は成り立っているようなものだ。
要は自分の残酷さにいかに目を背けているかだ。
水槽の前でヒラメを喰うのが板前の手前にある。
フグ屋のまえの水槽はフグを喰うためにある。
可哀想といいだしたらキリがない。
それを見ないようにして来たのが今日だ。
事情は無視するが現状をとやかく言うのは現代人だろう。
さきも事情はについては散々書いた。
可哀想などと言っていられないし、言わせない。
言わせないことで日常が保たれる。
不問にすることで痛みや傷(スティグマ)を個人の内奥に沈めていた。
ゆえに、外は綺麗な・・・薄っぺらだが、ようやく様になっている。
U師匠などは公共性の大事さを説く。
それはインフラで身銭を切らないと弱くなったとき、使えないだろうと力説する。
しかし、出せば持っていかれる・・・あたかもハゲタカのように貪られるのが予想されるから、いまはやれない。
やれば裸になり、身が持たないから、やるヤツはいない。
しかし、U師匠のいうことは分からかくない。
公共性の生きていた時代は他人への配慮…挨拶や親切が軽くできた。
それも、最近では利害関係や「やったことの予想図」から計算高いのが増えたし、それをやる機会ができた。
親切しても断ってくるなんてのは先読みのプロだろう。
リスクを考えれば良いことをするより、いかにしないでおく方にメリットがあるか?
たとえば、物を拾ってあげる。
しかし、将来関係性を持ち、コチラが害される可能性大ならスルーする。
危ないヤツらはそこらに溢れているようだ。
一昔前に、KYなど空気読みが話題になった。
何のことはない。
危険察知のことじゃねえか!
空気よみは雰囲気が悪ければ、モノを言わない。
生存に有利に働かせる生き物の知恵か?
「これみて悟れ」や体育会系なノリが強いとそうなる。
彼ら喋りが弱いからか?いや、言葉自体が次に体育会系になる。
会話にエネルギーを使わせるな!と。
だから、風潮がコミニケーション偏重になった。
コミニケーションがヘタだからコミニケーションを大事にしようとする学者の説がある。
しかし、要は忙しくなった(させた)だけだろう。
コミニケーションなどノンバーバルも含まないと、それではない。
雰囲気というのはときに忖度へ傾くのはエネルギーが要るからだ。
いかに、中動体(中有)・・・間を保つことはエネルギーが必要か。
それが苦手なヤツらが出てきたからそうなる。
もちろん、だからと言って若いのを小馬鹿にしているだけではよくない。
中高年ができているか?といえば怪しい。
サボれば人間、「間」を持たすなんてのはできなくなる。
退化して使えなくなり、忘れる。
決めつけなんてのは容易に出来るし疲れない。
だから、その分ラクをするか?
低エネルギーで済ませられる要領を見つけるか?の道に分かれる。
野暮話②
思うのは難問は優しくせよ、である。
むかし、中国の富裕層は終末期、ケシをやって夢のなかで逝った。
死の恐怖をポピーによって誤魔化した🌸
阿片窟( ´Д`)y━・~
ドラッグはいけないという。
しかし、ものは使いようだろう。
すでに、麻(※)も各国では解禁になっている。
これは、人間が自分でやっていくというスタイルをとりだしたからではないか。
(※)そういや、樹脂の方は解禁ならないな。
まぁ、これも新自由主義の飛び火みたいなものかもしれない。
いけるヤツはいけるし、いけないヤツはいけない。
あるやつはやるし、ないやつはできない。
邦人のドラッグ欲は海外並みである。
エンジェルダスト…いや、危険ドラッグが出たばかりの時、松本某の待合室は患者まみれだったそうだ。
松本某はこれを横並び精神という。
皆がやるからやる。
しかし、要は好奇心の賜(たまもの)で、そう考えたら見えない場所でロクでもないことやってるのは無数にいる。
刑務所に行った方がいいヤツは履いて捨てるほどいる。
シロシビンは脳内の爬虫類の部分を解放する。
記憶…地を這うもの、それこそモノであった頃の記憶を呼び覚ます。
野生。
シャーマンは退行意識のなかにキュアのヒントを見つけ出す。
キュアは現在や将来にあるのではなく、過去にあるのだ。
物事や人間は過去になり記憶になっていく。
人間、ある程度幸せがないとやっていけない。
貧富がいま極端だろうが、それはどうしようもない。
私よりも地位のある正社員様が若ければ腹が立たないというのはウソになる。
若いというだけで身体が動く、羨ましいが取り替えようが無いから仕方がない。
(´-ω-)フム
松本某はアルコールの害を散々説くが、いまやドラッグストアでも9%Alcはフツーに売られている。
自己責任。
良く言えば自分でなんでもできる精神。
松本某は関係性さえ健全なら、悪いADDICTIONには走らないという。
しかし、我が師匠はアルコールが抜けるどころか、リモートライブやりながら酒盛りしている。
わからん。
関係性が良好でも悪い事態は発生するようだ。
中年ジャニの山〇も、アルコールでヤバいという。
そのうえ、目が座り、ケンカになったらなかなか鎮火しない…と、昔聞いた。
関わりたくないが、何かをなす時にヘタになるというのは、弱点でもあり不器用な部分だろう。
全く不器用を改善しなくていい、というのではないが、1-2やっておき、残りは器用な点に充てる方が健全だろう、と思う。
物事は中動体であり、禅の境地にある。
そこで、ネガティブ、あるいはポジティブに働かせるのは人間の方針である。
ヘタなヤツほど掻き回しめちゃくちゃにする。
それでいいことをしたと思っている。
実は良いというのはさざなみが収まり、水鏡が現れたからだろう。
手を加えない方が良いこともあるがそれを知らない。
野暮話
「劇」(虚でもいいが)はそこから何を読み取れるか?がある。
あのやり方は真似したくないとか、アレは悪用できるとか、襟を正すとか。
ドラマにせよ、映画にせよ、話題の共有は大事だが同じ考えに持っていきたがるのは、よろしくない。
(´・ω・`)「時代は変わったよな」
性教育の低年齢化とその実技化は、一昔前なら有り得ない。
まえなら、望まないということで中絶できず、精神論で産み育てるスタイが、あたかも刑罰(私刑)のようななあった。
先日、ドラッグストアで〇〇を買う中学生がいた(※)が、タブーとしての性は解除され、その話題自体、低年齢化しているように感じられる。
世の中、容認する流れにあり、子供ですら大人でもむずかしい問題に放り込まれているように思う・・・のは、知能指数の低いだけか?
(※)〇〇が買ったというだけで、ハラスメントな文民にコンゴ流れそうだ。店の人も当たり前のように買わせていた。教育ってなんだろう?
たぶん、流行りなのだと思うが、これほどまで容認されていくのは、単に新自由主義の流れだけでなく、メンドーを見るのが難しくなったためか?
メンドーといってもアレよ。
「世の中の暗部は察して覚えろ!」みたいな不文律なところだ。
あまりしないほうがいいこともある、というのは「間」である。
「間」を置いておくことで、角が立たないことがある。
一線を超えないといってもいい。
だけど、いまは超える。
なぜ超える?
新自由主義の余波なんだろうが、新しい世代の実験にも見えなく無い。
子供のため、というが軸が子供に向かうのは自分を見失うことだ。
自分を生きればいいのだろうが、大人の欲望をそのまま子供世界に移してくるから、早期教育になる。
たしかに、今の子は成長が早いけどさ。
指導要領ですら・・・マニュアルも現実には追いついていない。
たとえば、不登校などは行かなくていいことが分かった(≒バックレても問題ないことが分かった)。
すると、その新しい状況にしても好き放題できる、自由人も現れる。
むかしから、放蕩息子や娘はいる。
周りが良くないというが、この場合は躾がよくない。
物事を決めるには細部を見なくては。
まぁ、わからん。
むかし「禁忌」に言われていたことが、当たり前に出回ることはある。
私の脳もだいぶ古くなった。
表現の危険分子(どうしようもない編)
師匠は飼い鳥の絵を流すとき、必ず焼き鳥を喰らうという。
(´・ω・`)「・・・」
自分の飼っている鳥のとなりで焼き鳥を喰う。
(´・_・`)「・・・」
…ソシ〇パス?
果たして、これが子供の教育にいいのか悪いのか?わからない。
表現の自由ですら、いまは暴力じみてきているから、なんでもありな時代なんだけど・・・たぶん、動物愛護団体が見たら苦情が殺到するに違いない。
ソシ〇パスとは反社会(非社会)的なことを、サラッとやってのける人格障害のことを指す。
ソシオイド。
サイコパスとの違いは社会性のなさに繋がるが、どこかドジっ子な部分がある。
サイコパスは知能犯なところを持つ。
なお、スキゾイドとは性格の1種なはずだが、いまは「障害」の部類に入っているという悲しい事態だ。
ある性格についてネガティブなことを持ち上げるイヤな風潮だ。
旧:分裂病気質(分裂病の前駆体と言われたが今は違うとされる)。
さて、飼い鳥の前で焼き鳥を喰う。
これだけでも、ホットな…いや、アチチな話題になりそうだ。
不謹慎だけど、笑うに笑えない、いや笑えるけど、笑えない。
しかし、一般人(≒善良な市民)ですら、牧場の真ん前でステーキを喰らうのだから、五十歩百歩だ。
なかには、鉄板がすでに牛の姿をしたものがあるのだから、師匠とやっていることは変わらないんじゃないか?
私の不気味心理学で解釈すれば、鳥の前で鳥を喰うとは、どこか愛情表現にも思えなくない。
飼い鳥の愛ゆえ、喰ってしまいたい…だけど、それができないから、焼き鳥なのだ。
要は代償こういうだ。
曲りなりにも愛がある。
たとえば、私なども神霊をたとえるときコレ使う。
お迎えっぽいでしょ?
これを死にそうな人の前でやるか?といえば、私はやらない。
なら、死にそうな鳥の前でやるか?
いや、やらない。
やるのが師匠だ。
それを、やってしまう。
一線を超えてしまう。
繰り返すが、いいも悪いもない。
ヘイトスピーチですら、許される時代だ。
常識が分からない時代でもある。
一体、なにがいいのか悪いのかも言いにくい風潮にある。
ひとつ、文句をいえば…コチラは立つがアチラは立たないなんていくらでもある。
冗談ですらそうだ。
冗談のつもりがある種の人々を深く傷つけ、損なうこともあろう。
だから、常識というか、バランス感覚なのだが。
ていど、加減、塩梅のようなもの。
成功したときが危ない
(´・ω・`)「ほう…あの人があんなことを」
働かないヤツから仲間を守れ!
努力者:非努力者(2:8)の8は努力のほどを考えろ!
みたいなのが要約だ。
要は働かざる者食うべからずだ。
これだから、あの人は一流から落ちるのだ。
非努力者というのは仕方なくそうなっているのである。
文の趣旨からすると、あの人の言う優生思想はいけないというのだ。
なかにはホントのサボりが居るのか居ないのかわからん。
しかし、人生の出番がない…というか失われて、雑用係になっている。
綺麗事いう(いえる)のが成功者だ。
あの人は超人気だ。
信者も言うことについていくだろう。
〇〇様が言うのだから間違いない、と。
民は盲になることがある、とはこのことだ。
もう少し気を使ってうと、働かないというのは状態であり、千差万別だろう。
心身に傷を負ってるのかもしれない。
人間不信で厭世的になっているのかもしれない。
甘え放題きてサボりの極みなのかもしれない。
最近は生保とりに言っても、病気だけど五体満足だから働きなさいなんて言うらしいけどねー♡
あと、風俗なら生計立てられるでしょ?とか。
問題は問題のあること全てをひっくるめて無いことにする方向だ。
これは、優しくないどころか乱暴だ。
腐った豆と古い豆を一緒にするようなものだ。
「ムリ!」にも種類があるはずだ。
なかには図のように黒い点がある。
私のようなサボりが少なからずいるのだろう。
もっといえば、ある程度波に乗れて今を生きる人は、残酷になりやすい。
いまの成功を過去の苦労があったから云々な話に持っていきやすい。
当時なかったのはあらゆる余裕だろう。
考える余裕、カネ、人間、生活…どれも、身体感覚に安定不安定を与える。
もちろん、過酷すぎれば病気にもなる。
ハラスメントという犯罪のもと、昼のホルモンが夜まで続き、攻撃性を保っておれば糖尿のひとつにもなる。
心身相関とはこのことをいう。
心療内科とは交換しんや副交感神経、ホルモンバランスを失調した際に診せるところではないか?
しかし、心身にはクセもあれば歴史もある。
どのような、幼少を過ごしたのか?
感じやすい人だったのか?
など、を入れれば「人間みな一緒」など、言えなくなる。
成功者ほど怖くなる(傾向のある)ものはない。
パイが少ないなら
メンタルの本田何某の記事を読んだ。
私の予想通り・・・というか、当たり前なんだけど新自由主義が大手を振って、福祉が軽視されるという意見があった。
いま70代の「世のため人のため型の人間」が見たら、卒倒するだろう。
昔人間のある人は、いまだに世の中のために製品を作りたい、など仰っていた。
しかし、流通や配分など、現状を考えれば製品はあっても買えない…買える者は限られるということになる。
相手を知らねばそれはわからん。
私も新自由主義について勉強しないとまずい。
名目通り、〇〇(※)は大事にしましょうという。
しかし、実際には人間、余裕のあるないなどは、見かけからは分かりにくくなった。
バンディがあるとしても、上手くいっていればいまのところはそれでいい。
(※)老人、女性、骨折者、その他
私の旧知人はベ〇ーカーを蹴り飛ばせ!などと破廉恥なことをいった。
しかし、思うのだけど、いま家族を作れるのは比較的上手くいかないと作れないのではないか?
不謹慎な言い方を許されれば、余裕があるから家族を作れる、と。
人間、優しくするのが難しくなった。
利害関係の多い時代だからだ。
集団のなか・・・学校や仕事でもいい、いや仕事なら尚更、「それをした後まで考えないといけない」というのが発生する。
相性の悪い相手に見られたら、点数稼ぎとされたりや、それだけで弱みと見なされるからだ。
報告なんぞ、いくらでも悪くいえる。
ゆえに、人が保身に走る。
雰囲気を読んで老人に席を譲らない娘を泣かしたという記事があった。
雰囲気を習ってくるのは学校や世の中だろう。
親切にしましょうというテーゼがいかにタテマエの極みか?
優しくして、クビになったなんてのは、勤め人やっていれば、チラホラ聞く。
上を目指すビジネスマンなら、優しくするのは都合の良い相手だろう。
優しさ自体が利害関係に巻き込まれている。
むしろ、危機を感じたら手を引くくらいの勢いがなければ、やってらんない。
「パイが少ないなら」と題に書いた。
なら、少ないパイが循環するような、ある地位のコロニーだけにとどまらせるのが、まず考えつくことだ。
パイを与えてはいけないか?
いけない場合もあろう。
与えたあと周りからやっかみ妬みが生じ、自分を害する恐れがあるのなら、できなくなって当たり前だ。