表現の危険分子(どうしようもない編)
師匠は飼い鳥の絵を流すとき、必ず焼き鳥を喰らうという。
(´・ω・`)「・・・」
自分の飼っている鳥のとなりで焼き鳥を喰う。
(´・_・`)「・・・」
…ソシ〇パス?
果たして、これが子供の教育にいいのか悪いのか?わからない。
表現の自由ですら、いまは暴力じみてきているから、なんでもありな時代なんだけど・・・たぶん、動物愛護団体が見たら苦情が殺到するに違いない。
ソシ〇パスとは反社会(非社会)的なことを、サラッとやってのける人格障害のことを指す。
ソシオイド。
サイコパスとの違いは社会性のなさに繋がるが、どこかドジっ子な部分がある。
サイコパスは知能犯なところを持つ。
なお、スキゾイドとは性格の1種なはずだが、いまは「障害」の部類に入っているという悲しい事態だ。
ある性格についてネガティブなことを持ち上げるイヤな風潮だ。
旧:分裂病気質(分裂病の前駆体と言われたが今は違うとされる)。
さて、飼い鳥の前で焼き鳥を喰う。
これだけでも、ホットな…いや、アチチな話題になりそうだ。
不謹慎だけど、笑うに笑えない、いや笑えるけど、笑えない。
しかし、一般人(≒善良な市民)ですら、牧場の真ん前でステーキを喰らうのだから、五十歩百歩だ。
なかには、鉄板がすでに牛の姿をしたものがあるのだから、師匠とやっていることは変わらないんじゃないか?
私の不気味心理学で解釈すれば、鳥の前で鳥を喰うとは、どこか愛情表現にも思えなくない。
飼い鳥の愛ゆえ、喰ってしまいたい…だけど、それができないから、焼き鳥なのだ。
要は代償こういうだ。
曲りなりにも愛がある。
たとえば、私なども神霊をたとえるときコレ使う。
お迎えっぽいでしょ?
これを死にそうな人の前でやるか?といえば、私はやらない。
なら、死にそうな鳥の前でやるか?
いや、やらない。
やるのが師匠だ。
それを、やってしまう。
一線を超えてしまう。
繰り返すが、いいも悪いもない。
ヘイトスピーチですら、許される時代だ。
常識が分からない時代でもある。
一体、なにがいいのか悪いのかも言いにくい風潮にある。
ひとつ、文句をいえば…コチラは立つがアチラは立たないなんていくらでもある。
冗談ですらそうだ。
冗談のつもりがある種の人々を深く傷つけ、損なうこともあろう。
だから、常識というか、バランス感覚なのだが。
ていど、加減、塩梅のようなもの。