隠れる(ハーミットとその他)

こもりびと系のドキュメントを観た。

彼らと彼らを取り巻く存在の葛藤の強さが知れた。

この手の問題は子供で終わるものでないと示唆しているし、人間、いつ脱落(ギャップ?)するか分からないともいえる。

 

深刻な内容が明るく語られるのは、その深刻さの補償である。

〇〇は良い子とか、〇〇だった大成功!

最近では不登校の過去を持つ人が若手長者となり、本を出す始末である。

しかし、それも僅かだろう。

 

成功したのならよろしい。

しかし、これほどまでに問題視されるのは、ことの深刻さがあるからだ。

失敗例が見逃せないのだ。

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ハーミットの個室まえにメシを用意するのを「お供え」という。

笑うに笑えない話である。

ある程度開き直れば家庭内暴力に発展するから、厄介なのだ。

 

個人的な事情を排除すれば、他所で隠居しろ!な話になるのだろうが、事情は棚上げしておき、生きる術を探した方が得策だろう。

しかも、事情など新たに生まれてくる人には分かりにくいはずだ。

いや、わからない。

新旧の文化差がある。

たとえば、就職氷河期など後世には、知らねーよ!となるだろうから、その時代に生きていた人間の皮膚感覚だけが記憶となる。

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「お供え」

・・・滋味深い言葉でもある。

「逝く」ことを「隠れる」という言葉で太古は現したという。

行動していれば、生きている、静止していれば死んでいるとして、機能的に見ていた先人達の目が興味深い。

仏門も死ぬことを意味していた。

あの世である。

 

いつ終わるか分からない修行は、あの世と同時に揃ってないとやってらんない。

なお、仏の手前が菩薩である。成仏せずに衆生を救う役として菩薩に留まり現世に残る。

関連性がある話ではないか!

 

また、アマテラスが岩屋から出てきたのは、引き出し屋(※)の手口が神代から現代も変わっていないことを意味する。

全く、成長していない。

というか、それ以前はサルだったんだろうから、人間の個々の識別も緩かったんだろうに。

私のものは私のもの、あなたのものも私のもの。

 

(※)変換で出るって余程、膾炙した仕事なのかしら?

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隠れ里(郷)などは避難としての意味も・・・理想郷、遊郭としての意味合いもある。

 

始皇帝などは、あのキン〇ダムで勇ましく正しく描かれているが、一方では暴君として庶(周り)民から恐れられていた。

法家(韓非子)の厳しくほうに則れば国が安泰するとして、首絞めな独裁国家だったという。

 

ゆえに、それから逃れたのが隠れ里の民である。

死んだ事にしておく、として身を守るというのは太古の人間の知恵である。

生きる知恵。

勇ましく独裁国家でこき使われるより、多少のボンビーでもあるがままの生を全うできるとして・・・たとえば、山野などに住んだ。

 

関係すれば使われるという過酷な状況なら、関係を断ち自分を生きる道を探るというのも有りだ。

 

余談だけど、嬴政はクールに賢く描かれているけど暴君としての乱暴さは「信」どころじゃ無かったんじゃないか?実際は。

酒見先生の作品と一緒に考えれば、育ちで人間どうにでもなると言えそうだ。