野暮話③
まえに、師匠は飼い鳥の前で焼き鳥を喰うと書いた。
「倫理二問題アリ」というのが多かろう。
しかし、角度を変えればそれは人並みに思える。
どうしようもないとして、物事を切り捨てているのは無数といるだろうし、それによって日常は成り立っているようなものだ。
要は自分の残酷さにいかに目を背けているかだ。
水槽の前でヒラメを喰うのが板前の手前にある。
フグ屋のまえの水槽はフグを喰うためにある。
可哀想といいだしたらキリがない。
それを見ないようにして来たのが今日だ。
事情は無視するが現状をとやかく言うのは現代人だろう。
さきも事情はについては散々書いた。
可哀想などと言っていられないし、言わせない。
言わせないことで日常が保たれる。
不問にすることで痛みや傷(スティグマ)を個人の内奥に沈めていた。
ゆえに、外は綺麗な・・・薄っぺらだが、ようやく様になっている。
U師匠などは公共性の大事さを説く。
それはインフラで身銭を切らないと弱くなったとき、使えないだろうと力説する。
しかし、出せば持っていかれる・・・あたかもハゲタカのように貪られるのが予想されるから、いまはやれない。
やれば裸になり、身が持たないから、やるヤツはいない。
しかし、U師匠のいうことは分からかくない。
公共性の生きていた時代は他人への配慮…挨拶や親切が軽くできた。
それも、最近では利害関係や「やったことの予想図」から計算高いのが増えたし、それをやる機会ができた。
親切しても断ってくるなんてのは先読みのプロだろう。
リスクを考えれば良いことをするより、いかにしないでおく方にメリットがあるか?
たとえば、物を拾ってあげる。
しかし、将来関係性を持ち、コチラが害される可能性大ならスルーする。
危ないヤツらはそこらに溢れているようだ。
一昔前に、KYなど空気読みが話題になった。
何のことはない。
危険察知のことじゃねえか!
空気よみは雰囲気が悪ければ、モノを言わない。
生存に有利に働かせる生き物の知恵か?
「これみて悟れ」や体育会系なノリが強いとそうなる。
彼ら喋りが弱いからか?いや、言葉自体が次に体育会系になる。
会話にエネルギーを使わせるな!と。
だから、風潮がコミニケーション偏重になった。
コミニケーションがヘタだからコミニケーションを大事にしようとする学者の説がある。
しかし、要は忙しくなった(させた)だけだろう。
コミニケーションなどノンバーバルも含まないと、それではない。
雰囲気というのはときに忖度へ傾くのはエネルギーが要るからだ。
いかに、中動体(中有)・・・間を保つことはエネルギーが必要か。
それが苦手なヤツらが出てきたからそうなる。
もちろん、だからと言って若いのを小馬鹿にしているだけではよくない。
中高年ができているか?といえば怪しい。
サボれば人間、「間」を持たすなんてのはできなくなる。
退化して使えなくなり、忘れる。
決めつけなんてのは容易に出来るし疲れない。
だから、その分ラクをするか?
低エネルギーで済ませられる要領を見つけるか?の道に分かれる。