はしゃぐということ

むかし、某大心理学者は当時あった事件から…

 

「学生が同級生から3000万を恐喝したと騒いでるが、だけど世の中見れば数億使い込んだとか、数十億横領したと、こんな(相似形な)話がヌポンには多い」

 

と、言った。比較しながら物事の善悪を希釈するのは某氏のクセだったが、それは置いといて。

 

カネはともかく、楽しむのは善みたいなのは昔からある。

楽しむためにカネがある。

資本世界に操られているということか。

カネはツールであり主人ではない、はどこかの格言だ。

使い方次第で活かすも殺すもできる。

そして、ないよりあった方がいい。

 

下降過渡期にあるのは確からしい。

「ボンビーは工夫が足らぬ」といわれ工夫してたら、よそでパーティーやっているワケわからない時代だ。

 

まぁ、相似形でみたら…たとえば私が値引きクリスマスチキン喰らいながら、よそで喰うか喰わずの生活してる国もあるわけで。

 

私は思うのだけど、懸命に性教育やるご時世なら、社会科の教科書見せて貧困国がどこにあるかテストに出すこと離れたほうがいい気もする。

・・・事前、模擬実施みたいな授業がもあるんだぜ?

 

あとで、苦しむよりいいでしょ!と力むかもしれないが、やることなすこと現実的だ。

私自身、現実を知らないのかもしれないが、その道(性について)へイケイケ、ノリノリな人間がヌポンには多いのかもしれない。

いや、海外のスタンダードに並んだのか?

 

しかし、何にしても正解を躍起に出そうとするのがヌポンらしい。

これが、正しかろうとしたら脇目も振らず・・・これが正しい、真実です!と言っているようなものだ。

「・・・」のあとに、一億総玉砕ときたら完璧だ。

 

なお「公園の無料の水を汲みに行きます」は師匠の名言だ。

「全てタダです!」

「無料です!」

など。

 

タブーというのは、話せば場がシラケるという類(たぐい)のことだ。

「(それが)あってもよろしい」という前提がそこ(場)にはある。

ゆえに、クリスマスでブドウ糖を流し込む貧困国民の話はできない。

 

その場の価値は雰囲気で決まるところがある。

カネで作り上げたモノ(雰囲気)もそれに付随したモノや、コスパで決まるのだ。