超現実主義としての〇〇

現実を知るには目の前の何ができるか?を考えることだ。

まず、目の前をみること。

 

超現実を見るにはpsychedelicな世界に関心を持つことだ。

現実の延長にある延長された世界。

机が…より机らしく見える光景と、豊かな色彩。

延長線上にあるイメージを描くのだ。

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将来の理想が強いと挫折した時、ダメージをかなり喰らう。

かと言って現実一辺倒なら味気がない。

ヒントはどこにあるか?

 

生活のなかに工夫あり。

生活は慣性だ。

毎日の連続であり維持であり、ベースでもある。

 

同じだろう生活がいつまでも続くと、ある種の新鮮さが失われ体内で何かが枯れ始める。

買い物はヒントでしかない。

カネがなければ何も買えないが、店の冷やかし…頭を働かせることはできる。

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科学的な見方というのは「より確からしい」というものにすぎない。

正確さに100%が無いように、安心は程よさが大事だ。

正しいことが好きなヤツは信念が強いことがある。

 

そういう場合、科学以外のことをやらせればよろしい。

科学のなかにいれば迷うことは多い。

とりあえず、結果を出さなければいけないことがあるが、「タテマエだ」と後ろから見て思っている。

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こもり人のドキュメントを観た。

よく知らないと、なに困ってんだコイツ!になる。

人の挫折のうちの1つだろう。

 

まず、家族で躓いている。

次に、世に出る拍子に躓いている。

あとは、世に出てから躓いている。

 

葛藤やギャップなどの有り様は個人的だ。

だから、個人でケリをつけろ!となりやすい。

社会が悪いと言っても、見ず知らずの親父連れてきて、何とかしろと言っても、お門違いだろう。

 

より、人間的に見るなら因果は不問(チャラ)にして、再出発を計った方が建設的だろう。

しかし、当人だけでなく、周りの人も彼を含む文化を築いてきた。

ゆえに、周りにチャラにしろ、と説いてもいままでのやり方にしがみつきやすい。

家人らの方が歴史が長いから。

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柳田何某などは、人ひとりのなかに既に文化あり、と言うようなことをいっていた。

自死した息子を上手く回想出来た結果か?

人間のなかに老若男女あり。

 

世に出れば、否応なくペルソナや役割を求められる(≒機能主義)。

森さんは集団化は弱者がつるむのだという。

実は、それは効率が良いからするのだろうと私は思う。

集団化した場合、ダメージも半減できるし、心身が安定した感じを得られる。

いわば人依存性に近い。

1番の目的は集団ですればすること・・・仕事も速いというが、結果として個人の魂を削り、摩耗し、見えなくしている。

個人である必要性がないともいえる。

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