現実主義ゆえ…心霊を疑ってみる②
宗教性は集団化の心性を帯びる。
「死」というのが平等にあるからだ。
「先に待っている」と言い果敢に飛び出すのは、いい例で死の先に向かう場所は皆一緒な考えから来ている。
Dr.養老などは臨死体験などは小さいという。
死ねばより大きな体験があるだろうとみる。
もし、ESPなどが使えるなら、この世はそれに覆われていただろう。
しかし、確実ではない。
あんな、無意識や身体の調子に左右される代物が現代資本社会を支えられるはずもない。
確実性や手堅さ、管理、責任など、世の中が好きそうな言葉でいっぱいだ。
だから、すぐに「何かあるからいけない」と個人の働きは制される。
この「何か」はネガティブなことで、余計なことや面倒なことは起こさないでくれ・・・いや、最近ではネガティブなことは無いものとされている節がある。
これでは、神経症患者が治まるはずもない。
規制やルール、管理は個人を中身から腐らす。
フェイクだか真実だかわからなくなったと言う流れがある。
小説が読まれないからだ。
小説じたい虚構であり劇であり、この世と切り離された空間である。
現実が利益的だからといい、それに縛られると虚構にあった価値…先取りのようなものさえウソとされ、軽蔑されるようになる。
幽霊は死んだらなる。
しかし、なっても今それを考えたって喰えない。
イメージの射程が遠すぎるのだ。
その分、SNSは速い。
ハウツーの極みのようなもので、理屈や道理からしたら将来そうなるのだろうが、意外性に欠ける。
そして、失敗を許さない。
逆に言えば、先取りしたものがもっと手前に来てしまっているからいけない。
だから、フェイクだと騒がれる。
フェイクに違いないが将来のパターンの1つかもしれないし、起きないかもしれない。
現実というのはもっと遅い。
(今の)見た目の派手さ加減に振り回されているようなものだ。
たとえば、身体などは70年かけてジワジワと老化していく。
若いうちから70年後の姿を先に見せられているようなもので、だからどうする?を問われ焦らされている。
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大陸では幽鬼といって死後の魂を鬼といった。
魂魄は気功の考えからしたら、魄は物質的な気で魂はエネルギー的な気というか?
なお、幽霊、お化けを邪気などに分類することがある。
悪い湿気のようなもの、ウッとするイヤな感じのある雰囲気を悪い気、邪気として捉えるのだ。
生霊などは飛んでくるのかどうかしらない。
窪地の悪い空気が溜まってできたのかもしれないし、換気の悪い部屋に悪い空気が留まった状態をいうのかもからん。
まぁ、魂(こん)もどこかに溜まりにいくのだとしたら、それを死後生・・・エネルギーの集まる場所…大気圏のようなとこにいくのかもわからん。
救急医の矢作某は残留思念が現場に留まるという。
そこから、霊を肯定する話になるのだが、チベットではないが経の1つでもあげ、換気をよくすればよろしい。
精神健康に繋がる。
般若心経にせよ、死人のためにあるのだろうが、唱える生者をなぐさめになる音階やリズムになっているのだろう。
サンスクリットバージョンの般若心経などは味がある。
産科医が水子に悩まされる話があった。
しかし、坊主からしたら囚われの状態と捉え、それは幻だと諭した。
水子がいるのかどうか知らん。
しかし、堕胎じたい「業」を思わせる技だ。
ニワトリを喰うくせに人未満を始末するのに罪悪感を覚えるのは神経の細かさから来ているものか?
罪悪感は溜まるものらしい。
しかし、フツーの人間は上手く責任を何処かに転嫁して、上手く生きている。
なにかと言い訳したり、(100%)誰かのせいにしたり、システムが悪いなどといって、自分の罪悪感(≒罪)を薄めたり、無いものにしたりする。
こうすることで精神健康を守るのだ。
余談だが、私は堕胎などこの世にいつも一定あると思う。
優生保護法だの、カトリックだのがあろうが、人間「仕方がない」として闇に水子を葬るのだ。
これを(あの世に)お返しする、という。
帰ってくれ!と。
蛭子は「要らない」とされ流され後に恵比寿様になったが、祟られないように祀れば、ご利益があるだろうという、生者のご都合主義である。
言われないだけで「葬られ」は無数にあると予想している。
だから、宗教があるのだ。
悪いことの濃度と同等の救い(?)の濃度というか。
「仕方がないこと」に救われないと人間やっていけない。
どこかで許しがないと日常生活は続かない。
悔い改めがなければフツーの世界に帰れない。
精神病にもそれを当てはめようとした。
心(日頃の行い)が悪いから「病む」のだ、と。
悪いことばかりしていれば病気になるよ、だから悔い改めて良いことをして感謝しなさい、と。
いつかの首相の言葉とそっくりだ。
これは、よく支配関係で悪用される。
誰かがいけないとされれば、言うことを聞かせられるからだ。