遠いところに来てしまった(地震から)
阪神、オウムの系譜・・・
災害にはある種の根がある気がしてならない。
(妄想)
阪神のいま。
「がんばろう」は東日本大震災でも散々使われた。
何を頑張るのだろう?
たぶん、まともな生活軌道にもどることをいみしてるんだろうけど、変な感じか身体中から泉のように湧いてくる。
私自身、偏屈でダークで陰キャのうえ、魂が穢れているからだろう次の言葉が出る。
死んだ者への言葉はどーすんの?
もし、鎮魂の意味もあるなら静粛極まりないやり方・・・
絵を見る限り生者オンリーな感じがすんのよ。
死人には用がない、みたいで。
こんなことしてるから・・・というか、こういう現世利益で、並、まとも、健康みたいなのが価値を持つから、弱いものは大事にしないといけない、というのがタテマエになる。
容易に弱くなれない。
弱ったものにがんばろうは酷だろう。
むしろ、慰めやキュアか要ると「こころの傷を癒すという云々」の著者もいっているが、甘えやサボり、ズル、汚さに見えるのだろう。
だから、それ以外のやり方…要領、方法、見方も育たなくなり多様性もなくなる。
これがひとつの道だ!とされて従わざるを得なくなる。
まぁ、こんなこと言うから私自身が甘く、ケーキの中にでも住んでるんだろう!などと揶揄されるのだ。
死人はどういう想いで死んで逝ったか分からない。
いや、わかった方が気持ちが悪い。
辛かった、死んで上がりだ(双六調に)、現世から逃げられる、まだやり残しかある…など、その言葉は無限だろうし、走馬灯はあらゆる思い出を死にゆく人に観せる。
死人はこう想ってた死んで逝ったに違いない、と割り切る方が楽である。ただ、その際顔つきは楽そうだが酷な顔もしている。
酷な人間が増えたのか昔から定数いるのか?