遠いところに来てしまった(地震から)

阪神、オウムの系譜・・・

災害にはある種の根がある気がしてならない。

(妄想)

f:id:southapollon:20210117133509j:image阪神のいま。

「がんばろう」は東日本大震災でも散々使われた。

何を頑張るのだろう?

たぶん、まともな生活軌道にもどることをいみしてるんだろうけど、変な感じか身体中から泉のように湧いてくる。

 

私自身、偏屈でダークで陰キャのうえ、魂が穢れているからだろう次の言葉が出る。

死んだ者への言葉はどーすんの?

もし、鎮魂の意味もあるなら静粛極まりないやり方・・・

絵を見る限り生者オンリーな感じがすんのよ。

死人には用がない、みたいで。

 

こんなことしてるから・・・というか、こういう現世利益で、並、まとも、健康みたいなのが価値を持つから、弱いものは大事にしないといけない、というのがタテマエになる。

容易に弱くなれない。

 

弱ったものにがんばろうは酷だろう。

むしろ、慰めやキュアか要ると「こころの傷を癒すという云々」の著者もいっているが、甘えやサボり、ズル、汚さに見えるのだろう。

だから、それ以外のやり方…要領、方法、見方も育たなくなり多様性もなくなる。

これがひとつの道だ!とされて従わざるを得なくなる。

 

まぁ、こんなこと言うから私自身が甘く、ケーキの中にでも住んでるんだろう!などと揶揄されるのだ。

 

死人はどういう想いで死んで逝ったか分からない。

いや、わかった方が気持ちが悪い。

辛かった、死んで上がりだ(双六調に)、現世から逃げられる、まだやり残しかある…など、その言葉は無限だろうし、走馬灯はあらゆる思い出を死にゆく人に観せる。

 

死人はこう想ってた死んで逝ったに違いない、と割り切る方が楽である。ただ、その際顔つきは楽そうだが酷な顔もしている。

酷な人間が増えたのか昔から定数いるのか?