働く以外は隠者?②

タイトルから内容が離れていくのは良くない。

私の悪い癖だ。

 

「隠者」・・・世捨て人なイメージがある。

俗世の猥雑さを嫌い、小さな世界で小さく…その生を全うする。

 

むかし、坊主になれば年貢を納めなくていいとあり、坊主が大量発生しそうになったという。

税収がなくなり國が傾くのを恐れたゆえ、世襲になった遠因でもある。

 

だから、仏教…厳しい流派やジャイナ教では禁欲がメインなのだが、ヌポンに仏教が入ると坊主に子供ができるってどーなの?な話になる。

 

親鸞なども仏教にとどめを刺したと言われているが、マイルドな甘口カレーにしたようなものだ。

肉は喰う、嫁は貰う、お布施はもらう(宗教法人で税の除外)でこんないい話はない。

だから、乞食と坊主は3日やったら辞められない!になる。

 

某寺などでは、若い娘が通ったなら、坊主がどんな子?可愛かった?などと煩悩に満ち満ちたツッコミをしてきた。

宗教はどうやら使い勝手がいいらしい。

 

古代の聖人がボロを纏って布施を貰う話をNEETな達人は「あれ、乞食」と真正面から言ってくる。

あのスピノザですらガラス磨きして哲学していたのだ。

なにも、有名なのが立派か?といえばそうではなかれりう。

 

親鸞が仏教にとどめを刺したシーンは、キリストが市場で暴れた流れに繋がりそうだ。

ありがたい言葉というのは儲けになる。

儲けになるゆえ、しがらみとなり、俗世の匂いがプンプンしだす。

だから、隠者なのだ。

 

人のこないところで真理・・・数学の公理でもいい、世の真実と向き合う。

観察や考察から導かれる答えを求める姿勢は科学者にも似る。

ゆえに、自らが導いた理論や公理・・・悟りのようなものは、ノーベル賞よりも重い。

〇〇賞は助手にでもやっとけ、になる。

 

足元にすでに真理ありという。

なにも旅に出て世界を知らなくても、実は自分の下に転がっていることがある。

どこかに行けば、それだけ惑わされ不純になる。

「世界を知れば自分が変わる」というキャッチコピーがむかし流された。

あんな胡散臭いものはない。

 

世界は常態であり習慣にまみれており、変わっていくのは成長や老化していく「私」なのだ。

その点では時間が味方にもなるし、時間稼ぎにもなる。

己の変化を観察し、変容していくのが自分であるのを再発見するのだ。

 

では、活動的な人は何も知らないか?

そんなことはない。

人には性分というものがあり彼らは彼らの発見があり、細かいながらも多くの発見をして(余分なものは捨てて)いるだろう。

それでいいのである。