カルチャーと反日《更新》

某氏などはヌポンカルチャーの落ち方を嘆く。

音楽はもういけない、と。

 

私も彼(か)の地の方が本格的ではないか?と思う。

専門家(芸術的)志向だ。

絵になるポップミュージックを目指した結果だろう。

 

〇〇すごいというのが最近流行った。

自賛してまでアゲないといけないという、みっともなさを感じるが。

仲見世のジャパニーズ土産も裏を見るとmade in Chinaだったりする。

風呂敷、手ぬぐい、〇〇焼きなんてのも純正はなかろう。

むしろ、デパートにいかないと見られない希少品ではなかろうか?

 

しかし、そう言うとスグ「反日野郎!」という。

文化、社会に参加参戦しているのは手前もだろう。

有田焼の商標をもっていかれたというが、その前にどれだけのことを手前はした?である。

当時の彼の地のことや状況、これから起きるであろうことの推測を怠り何もせずに今に生きたからこうなる。

 

思うに、半額惣菜や弁当ですら高いと感じる。

誰かフィリピンとモノの値段が同じと言った。

バブルのころは¥1,000出せば毛ガニが5つ手に入った。

いま、AEONですら¥5,000でようやく1つである。

 

「下りる生き方」は前から言われていた。

後退戦である。

むしろ当時の分裂症者のグループから提案されていた。

しかし、現実には均等に降りていくことなどは不可。

正社員様が今も変わらぬ生活と、その倍以上の数の非正規の人間が低賃金で働いているではないか?

カネが稼げれば何でもいい、なら劣悪なとこでもいいんだな?という。

 

みな、我慢しているとして個人の意見など封殺されるんだから、ヒューマニズムも民主主義もヘチマもない。

民主主義=大多数の意見とされているんだから「個人」が生きてこないし、現れない。

共存という調整…落とし所を探すのが目的である。

誰かを我慢させて成り立つのは、近代以前への退行であろう。

 

ゆえに、自分はああいう不幸者になりゃしないだろうと思うから、いくらでも残酷になれる。

こういうときだけ個人が顔を出すんだから、ご都合主義だ。