また、いつもの野暮話

(´-ω-`)「ふぁ~」

新宿行って(≒逝って)、午後勤やって疲れた。

f:id:southapollon:20201228011302j:image帰りに買ったご馳走。

手つきが釣果みたいだ。

骨まで喰うという強者もいるようだが、歯茎も丈夫なのだろう。

小骨の狙いは何も喉だけではない。

口内、くちびる、歯の隙間など、色んなところを狙ってくる。

 

値引きの焼き魚(¥99)がご馳走・・・まさか、この歳になって言うと思わなかった。

下を見たらキリがないし、上を見てもキリがない。

H師匠なども、今頃は生物学者となり世界を駆け巡る人物を夢見ていたそうだ。

しかし、現実にはド底辺の動画主。

 

世の中そう甘くない・・・というか、甘くないどころかキツすぎ。

理数の才能を持ちながらも建築やるのもいる。

スピノザなどもレンズ磨きの哲学者だった。

世の中のニーズが理数や哲学を求めていないのだろう。

 

理数といっても、程よい計算や電気や物理は要るかもしれない。

道徳の授業が評価制になる云々…言っているが、思念、思潮そのものに評価が付くはずがない。

 

文科、芸術、数式…頭の世界は手に取って何かできるものではない。

だから、どうしたの?

やって、どうなるの?

など、言われて「いま」答えられる方が不気味だ。

 

抽象概念というのは、いつか実になるかもしれないものであって・・・強いて言えば「理想を温めておく」ところがある。

あれば暖かいし、なければ夢がない・・・みたいな。

インフラというのは共通項なところがある。抽象概念などやる余裕がなければ、やってどうなる?となって当たり前だ。

これを、文化に余裕がない状況であるという。

 

美術館などで忙しなく順路を守らせ歩かせるのも、どこか作品を消費物みたいにされているフシがなくはない。

より多く見た方が得、では豊かではない。

深みや味わい、作家のメッセージなどを見落とすこともあろう。

まさか、観る者全てが有能なわけがない。

 

個人的な印象や感じ方を無きもの(亡きもの)にするのは、ファッショへの入口が開いている。

何か強いものが示すものが正しく、その感じ方や考えかたですら、そうあるべしときたら、個人は故人となる。

ひとりはみんなではない。