また、いつもの野暮話
(´-ω-`)「ふぁ~」
新宿行って(≒逝って)、午後勤やって疲れた。
帰りに買ったご馳走。
手つきが釣果みたいだ。
骨まで喰うという強者もいるようだが、歯茎も丈夫なのだろう。
小骨の狙いは何も喉だけではない。
口内、くちびる、歯の隙間など、色んなところを狙ってくる。
値引きの焼き魚(¥99)がご馳走・・・まさか、この歳になって言うと思わなかった。
下を見たらキリがないし、上を見てもキリがない。
H師匠なども、今頃は生物学者となり世界を駆け巡る人物を夢見ていたそうだ。
しかし、現実にはド底辺の動画主。
世の中そう甘くない・・・というか、甘くないどころかキツすぎ。
理数の才能を持ちながらも建築やるのもいる。
スピノザなどもレンズ磨きの哲学者だった。
世の中のニーズが理数や哲学を求めていないのだろう。
理数といっても、程よい計算や電気や物理は要るかもしれない。
道徳の授業が評価制になる云々…言っているが、思念、思潮そのものに評価が付くはずがない。
文科、芸術、数式…頭の世界は手に取って何かできるものではない。
だから、どうしたの?
やって、どうなるの?
など、言われて「いま」答えられる方が不気味だ。
抽象概念というのは、いつか実になるかもしれないものであって・・・強いて言えば「理想を温めておく」ところがある。
あれば暖かいし、なければ夢がない・・・みたいな。
インフラというのは共通項なところがある。抽象概念などやる余裕がなければ、やってどうなる?となって当たり前だ。
これを、文化に余裕がない状況であるという。
美術館などで忙しなく順路を守らせ歩かせるのも、どこか作品を消費物みたいにされているフシがなくはない。
より多く見た方が得、では豊かではない。
深みや味わい、作家のメッセージなどを見落とすこともあろう。
まさか、観る者全てが有能なわけがない。
個人的な印象や感じ方を無きもの(亡きもの)にするのは、ファッショへの入口が開いている。
何か強いものが示すものが正しく、その感じ方や考えかたですら、そうあるべしときたら、個人は故人となる。
ひとりはみんなではない。