「U」を読んだ③
文書のなかで被告の生育史に触れず裁判を進める点が気になった。
もとい、セレモニーや儀式、お祭りとなっている裁判である、という内容から生育史などはどだい踏み込まないだろうと、私は思った。
オウムの逃亡者の捕縛にしても(卑近だけど)、捕物劇としか見ていない人間が多かったら覚えがある。
「なぜ、このような人ができあがったのか?」というのは問わない。
問うても、分かりやすい形式にはめ込み安心したがる心性が働いているに違いない。
しかし、何と言っても生育史がどうしたの?な話になるのかもしれない。
スティグマやPTSDモノの物語が過去に消費されたことがあるではないか?
だから、またか?と。
あるいは、人間誰しも多かれ少なかれの傷を持って成長する(だからあきらめろ)みたいなのが、働いているいるのかもしれない。
過度な一般化が働きやすくなっている。
「考えてみればあれは…」などやれば、確かに微小なスティグマだといえない過去はあるだろう。
しかし、物事は程度の問題でもある。
薄い毒に浸し続ければ中毒をいずれ起こすように、そのような環境が幼少期にある…いわゆる特殊な生育史を歩んだ者もいなくはなかろう。
時にこの国は「性」におおらかだ、といわれる。
性被害の曖昧化も、どっちもどっちと片付けられるのは…あるいは、セクハラが冗談とされてしまうのは、悪習・悪文化と言えなくない。
いまは、女性から男性にセクハラする事例がある。
「場」の強さに倫理すらも支配される。
ネグレクトとは要は塩梅の逸脱であろう。
させなすぎ、させすぎ、という過不足…バランスの悪さが事態を悪化させる。
「ネグレクトされても立派に育ったじゃねえか?」というのをよく聞く。
だけど、私は逆境じたい全てが良いものだと思わない。逆境を克服し…克服後も周囲を嵐に巻き込む人間があろう。
全てを美談や武勇伝で終わらせない。
あるいは、生育史(≒理解)など意味が無いという世の中なのかもしれない。
やったことが酷すぎて死刑にせよ!と声高に叫び、理性を忘れているのかも分からない。
死刑とはある意味、ニーズだというのがわかる。
「なぜ、こういう人が出てきたのだろう?」は余裕がないとできない。
短絡的に処理するやり方が死刑でもある。
何かあれば、極端なことを言うのが居る。
素早く解決(?)したいから短気を起こす。
しかし、それはその人の考えだ。
いかに、理性を失わず、極端な感情の発火点に影響されないか?が要る。
そう思えば、この国は感情論で動かされているのが良くわかる。