まともなのからいなくなる

木漏れ日温かな昼の公園。

f:id:southapollon:20201126200228j:image右下に映るのは不審者の一部ではありません。

我が街のベンチですら衝立(ついたて)があり、横になれない。

環境美化及び風紀を乱さないための対策か?

(´・ω・`)「誰を対策するの?」

住宅地図ゆえ子供の安全や、そのなかの学校・地域などで安心して子育てできる環境の配慮を窺わせる。

隣の隣の隣の区なんかは台風のとき、浮浪者だけ避難所の入室を拒否したんだから、すげえ安全対策だ。

もうやだこの国。

 

人は「ネ申」の元で生きるのではない。

皆の評価…その人の働きっぷり(機能性)により生かされるのだ。

もうダメこの国。

 

五輪の誰かさんが「神の国発言」で波紋を呼んだけど、みんな(=神の国)からその人が選ばれるんじゃあ「ネ申」も終わっている。

 

それはさておき。

f:id:southapollon:20201126201427j:image昼の握り飯。

冷解凍を繰り返した握り飯は、どこの店でも食べられない逸品。

とてもゴワゴワ🍙

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胸やけしそうなおにぎりでお腹いっぱいになる。

当たり前だけど親子連れがチラホラ見られる。

 

師匠は自然の中ですら「私」は異物だと言うのだから、真理の的を得ている。

自然の中に親子連れが師匠が混じれば、率先して無私になれるんだから達人である。

ややもすれば、落人とか、零落者とか乞食(こつじき)など、言われかねないが、現世からある程度身を引いてこそ、観えてくるものはある。

 

(あまり好かないが)全八先生の某氏は「まともな事を執拗に言うと、その人は病的な顔をしている」というのは確かである。

ある種の強迫性というか。

ある人が執拗な正しさを、この人にいう。

ある人は死神のような顔つきになる。

 

正しさというのは「攻撃性」の裏返しである。

(執拗な)正しさは大人世界で良く使われる攻撃ツールである。

競争原理渦巻く大人世界・・・右肩差がりで共助!共助!と言われるが、いまだに血で血を洗う世の厳しさは厳然としてある。

 

正しいことをしようとすればするほど、事態はおかしくなっていく。

あるいは、おかしくしようとしているのか?

我が身の正常さを固めに固めれば、遂に正常という者は誰もいなくなる。

実に神経症的だ。

 

まぁ、見方を変えれば「狂い」を排除する(と思っている)ことで、成り立っている世界もあるわけだ。

ただ、その分代償はデカくなるけど。

 

良い例が、組織はまともなヤツから居なくなるというものさ。

組織というフォームに自らの感性・思念を歪ませ、ようやくやっていく。

それも才能といえば才能なんだが、傍(はた)から見れば疲れ知らずの怪物である。

自らを歪め、まともさを喰いながら生きていく現代に生きる魑魅魍魎。