まともなのからいなくなる
木漏れ日温かな昼の公園。
右下に映るのは不審者の一部ではありません。
我が街のベンチですら衝立(ついたて)があり、横になれない。
環境美化及び風紀を乱さないための対策か?
(´・ω・`)「誰を対策するの?」
住宅地図ゆえ子供の安全や、そのなかの学校・地域などで安心して子育てできる環境の配慮を窺わせる。
隣の隣の隣の区なんかは台風のとき、浮浪者だけ避難所の入室を拒否したんだから、すげえ安全対策だ。
もうやだこの国。
人は「ネ申」の元で生きるのではない。
皆の評価…その人の働きっぷり(機能性)により生かされるのだ。
もうダメこの国。
五輪の誰かさんが「神の国発言」で波紋を呼んだけど、みんな(=神の国)からその人が選ばれるんじゃあ「ネ申」も終わっている。
それはさておき。
昼の握り飯。
冷解凍を繰り返した握り飯は、どこの店でも食べられない逸品。
とてもゴワゴワ🍙
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胸やけしそうなおにぎりでお腹いっぱいになる。
当たり前だけど親子連れがチラホラ見られる。
師匠は自然の中ですら「私」は異物だと言うのだから、真理の的を得ている。
自然の中に親子連れが師匠が混じれば、率先して無私になれるんだから達人である。
ややもすれば、落人とか、零落者とか乞食(こつじき)など、言われかねないが、現世からある程度身を引いてこそ、観えてくるものはある。
(あまり好かないが)全八先生の某氏は「まともな事を執拗に言うと、その人は病的な顔をしている」というのは確かである。
ある種の強迫性というか。
ある人が執拗な正しさを、この人にいう。
ある人は死神のような顔つきになる。
正しさというのは「攻撃性」の裏返しである。
(執拗な)正しさは大人世界で良く使われる攻撃ツールである。
競争原理渦巻く大人世界・・・右肩差がりで共助!共助!と言われるが、いまだに血で血を洗う世の厳しさは厳然としてある。
正しいことをしようとすればするほど、事態はおかしくなっていく。
あるいは、おかしくしようとしているのか?
我が身の正常さを固めに固めれば、遂に正常という者は誰もいなくなる。
実に神経症的だ。
まぁ、見方を変えれば「狂い」を排除する(と思っている)ことで、成り立っている世界もあるわけだ。
ただ、その分代償はデカくなるけど。
良い例が、組織はまともなヤツから居なくなるというものさ。
組織というフォームに自らの感性・思念を歪ませ、ようやくやっていく。
それも才能といえば才能なんだが、傍(はた)から見れば疲れ知らずの怪物である。
自らを歪め、まともさを喰いながら生きていく現代に生きる魑魅魍魎。