オー〇〇ダ〇〇〇〇ーグについて②
再び「虫食い題名」について語る。
共感というのは大切なことか?
ややもすれば、同調作用のあるもので医療の中なら良いが、これを日常でされれば潰される恐れがなくはない。
共感過剰な世の中と言われる。
「フリ」でもいいから、してないと爪弾きにあうというのだから、過酷なものだ。
厄介なのは、それが権力や力ある者が使い出した時に起きる。
そんな時の共感は忖度になる。
その場で力あるヤツが都合よく解釈させてしまうのだから劇薬と化している。
言ったことは意見として認めるが、それを行使してはならない、は最低ラインだろう。
それを超えるから問題が起きる。
「虫食い題名」についても、いまは色んな意見を言い合うとあるが、全体的な機能主義を求めるポンニチなら、何らかの効果がなければ廃れることもありうるだろう。
要は上手く患者実用にうまくを組み込ませるか?になる。
しかし意見、意見というが、落とし所ならまだしも、全体共有に持っていきたいという奇習を感じさせるのが、この国でもある。
意見の数は変数であっていい・・・けれど、(ウソでもいいから)こう考えていないといけない(※)というのをアピールしていないといけないのは圧力だろう。
そのなかで多くの人間やっていけるんだから、それらをマジョリティという。
※していなければ、オマエは考え方が良くないなど言われることもあろう。
機能主義というのは実によく出来た言葉で、それが機能していなければならない・・・さもなければ、下に見られるという形態や、そうでなければダメだという考え方である。
もちろん、機能というからにはファッショである。
全体にいかに機能しているかが査定されるのだから、している者は高く、していない者は低くされる。
医療チームとて仕事である。
人を集めて患者のまえで意見をいうというのは、果たしてできるものか?
仲の悪い同僚などがいたら、嘘を言ったり、言いたくもないことを言わせられることがなくないだろう。
要はその場の人間次第である。
いくら「虫食い題名」が優れていたとしても、その場の人間やリソース次第でロクでもなかったりする。
人間に左右されるだろう。
「虫食い題名」は決定打ではなかろう。