アンチファ再び

全体主義とは皆が正しいと思おうとする態度である。

果たしてそこに正しさがあるか?といえば無い。

皆にメーワクがかかるから、皆のために、皆と一緒に…など、書いていて反吐が出そうになる。

逆に言えば、個人の事情など大事にされないと言っているようなものだ。

 

多様性云々と謳っていても共感過剰を経て今では戦犯も良い側面があったに違いない、という人間もで出している。

 

これは、部分的に良い面も悪い面もあるという考えがないからいけない。

1つ良ければ全て良いだろう、というのは甘さがある。

逆に少しでも悪ければ悪に染まる。

 

「共感」は心理学でよく使われる。

クライアントにまず共感しなさいという、セラピストの態度だ。

しかし、ものは過ぎれば毒になる。

「共感」は果たして良いものか?

いや、共感の不要なものに共感は不要だろう。

悪いことをしたい人間に〇〇だから、悪いことをする・・・に誰が共感したいか?

最も、悪というのは善がなすものだ、正しさがかえって物事を損なうという話もある。

人間、「共感」を上手く働かずには相互的にセンスがいるのだ。

無闇な共感は考えものだ。

 

気になるのはファッショの体をなさないと都合が良くないという事実がある。

見た目はみんなの為にしなければつつかれる。

しかし、内実好き放題している輩がどれだけいるか?

それも、集団内で力を持つものが大手を振るう。

ファッショ≒権力ともいえる。

 

 

某医師は正論は覆しにくいという。

時代柄、弁護士の論争を一般人がやるようなものだ。

むかしは相手をけちょんけちょんにするまでやらなかった。手加減があった。

いまは、やらない。一方的だ。

ゆえに、正しさというのは…言われた相手が余裕を作り出し、間を保たせながら話し合わなければ…正論の前段階に戻れない。

 

ディベートにせよ、海外とニッポソでは違うと言われる。

向こうは対話で相手の話を聞きながら、自分も述べるというスタイルらしい。

教育現場では「正論を言えるくらい自分が成長したと思えばいい」という、さもケンカしにいくような評価を聞いたことがある。

ディベートは言い負かすみたいなニュアンスがある。

相手の言動じたいの落ち度を粗探しし、反論する相手の言葉を更に言い負かすような感じだ。

これでは建設的ではない。

一方の言い分が通れば良し、これでは単なる論争だ。

 

早い話、個人個人が生きていない。

猿山の大将を皆で拝んでいるお猿さんみたいなものだ。

まぁ、ニッポソでは大将は見えないように活躍してるんだろうけど。