役に立つ言葉、役に立たない言葉(かり)?

最近になって分かってきた事があるようだ。

古い世代には分からなかったことが、今の時代の人から見たら分かることが。

時間が経つことにより、人類的な余裕が出来たりや俯瞰的な見方が出来るのかもしれない。

 

ドキュメントの臓器たちは語り合うではないが、臓器同士が微小物質(ホルモン様物質)を感受し合って情報のやりとりをするみたいな。

一昔前なら「ホルモン」として、ひとくくりにされていたんだけど。

 

近代史を今更ながら勉強している。

肉体労働さなかの知識の詰め込みはハードだ。

やって何になるの?とか、もう止めとき!みたいに言われるが、私自身がアホになりそうだから、やってるんだけどさ。

これが学生時代の社会科で寝てた人よ。

凄い進歩だと思うんだんだけど。

 

学者も職人だと思う。

知性を練るような仕事だ。

学者世界が狭くなれば、意見も狭くなる。

実学以前に、考え方・道筋…みたいな道理を導く力が学問の効用ではあるまいか?

 

大人のいう仕事とは、あっち側のネジしめたり、コッチの木材外したり備え付けたりとか、機械的なことだ。

表現がブルーカラーなので仕方がない。

ホワイトカラーならもっと頭脳的になるんだろうけど。

あと、人間関係の技術ね。

 

仕事をしてると、どうしても効率を考えてしまう。

無駄なこと、余計なことは無いものと見なしたがる。

だとしたら、学者の仕事はあれでもない、これでもない、という可能性を導く仕事かもしれない。

妥当性や「確からしさ」を求めるのだ。

 

それに、断定的に仕事なんてしたがる。

注文来たからそれをちゃんとこなす。

金儲けには知性はいらない、と誰か言ったけどその通りだ。

まぁ、女性の場合はもっと機転が利いて考えにゆとりがあるけどね。

それは、ある意味知性と見て…いや、知恵かもしれない。

 

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あまり「性」については語りたくない。

品が無くなるからだ。

だけど、昨今の教育事情を見ているとフワフワとしていられないようだ。

ヤンキーが早婚は定説だったけど、それは中絶が躊躇われたからかもしれない。

全八の授業ではないが、いまクール見れば愛だの情だの言ってられるか!なのかもわからん。

逆に言えば本能はしたいからする、のであって人間世界の約束事(≒愛だの情だの)など、関係ないことになる。

人はもっと本能的だ。

 

ある意味「人がわかる」人がいまいない。

河合何某などは「不純交際などは親子関係が良くない」というが感覚的な判断だろう。

それはたぶん間違いない。

間違いないんだろうけど、それを丁寧にやれる時代だろうか?

だから、手っ取り早い早期教育になっているのかも分からん。

 

また、吉本隆明は性は語らずが教育と言っていたらしい(私の解釈)。

これは親戚過疎が近かったから「性についての妙」が感覚的に子供ながら徐々にわかっていったところがあるのだろう。

だから、子供の置かれている状況が今と昔では違うのだ。

 

なお、性についての乱れはDr.松本はまずはセラピーを考える。

抱擁的で叱らない。

バックグラウンドの性についての対しての緩さが文化にはあるのかもしれない。

品性や尊厳云々より、その方で進めていかないと話にならないのかもしれない。

小さいうちから「それは下品だ」という躾は、じゃあアンタはどうなの?と返されるだろうしね。

心理学で反動形成で将来に良くないという意見もある。

 

中絶薬も進歩していて乱用されなければ、合理的であり私は良いと思うけど、カウンターカルチャーから「それでも死なない奇形児からの復讐」みたいなホラー映画が出そうで怖い。

 

一方で、性に関しての残酷さは…要は先の文章にあった慰安婦とかの婦女子の暴行、中東などの児童婚をか考えさせればいいんじゃないか?

男性(≒権力)主体で自由のない世界。

戦争があれば略奪や奴隷化や暴行がある黒歴史の教育。

「愛し合うのはいいことだ」を盾にしている大人世界を見ればもっと乱れた性の世界がある。

 

でも、都合の悪いことは容易に他人事(余所事)にしてしまうからな。

あれは運が悪かったとか、自分はあんなバカはしないとか。

本能に根ざした話は難しくもある。

昔から性に関しては寛容な文化だと思うけど。