戦争と感性
近代史以前に歴史に弱いからいけない。
社会科は寝ていたのが今になってアダとなっているようだ。
まぁ、中学社会ですら怪しいが。
こんな非常識な私がいうのもなんだけど、戦争を感性で見る視点が最近ある。
「このせか」なんてのも一種の作品のを楽しむ流れになっている。
もっと、真面目にいえば戦時の強かさを描いている・・・のだが、もっとおおらかに、いつ死んでも分からないんだから、という感じが楽観さを産んでいる。
市井の視点から描く戦争は野坂さんやはだしのゲンが有名だけど、そこには複雑な・・・入り組みすぎた葛藤があり、どうしようもなさが作品を成しているように私は感じる。
ゆえに、戦後デカダンスなんてのがあったのも頷ける。
1番よくないのは視点の固定で戦争とはこんなもんだ、というのだが「このせか」ではどうも腑に落ちない感じがある。
斬新な戦争イメージで当初・・・今もか、観る者にとって負担が少ないのと、楽観さ・・・安心感のようなものを与えるのが迎合されたんじゃないか?と思う。
はだしのゲンなどは描写が残酷だという。
ヒロポンで駄目になっていく仲間の姿は痛々しい。
だけど、それが現実だ。
いまよりリソースはないし、救い方も分からないことだらけだ。
ゆえに、その「状況」じたいが作品になっている。
ある種の苦しみは不足から来るというし、過剰かも来るという。
しかし、何が過剰で不足しているかが見えない時代には、他時代からみれば分からない・・・感性において分からないことことがある。
正直、私も戦争作品の群など分からない。
むしろ、戦中派の描く作品には複雑な葛藤の多さを感じた。
ゆえに、ある人は語りたがらないし、ある人は語れない。
むろん、言葉に出来た人もいただろう。それは、某心理学者が言っていた「どの時代でものほほとしていける人」を指すのかもしれないし・・・分からない。
ただ、国際専門家の某は戦争やってもいいと、若い世代でも言うようになった今日である。
自他の心身や生命の扱われ方がより問われる時代になったと感じる。
また、人の現道・・・特に残虐行為、バイオレンスなどはエスカレートする物だとわたしは思う。
某医師は昨今の疫病下で、マスクにより氷上が見えないことが匿名制に繋がり、暴力がエスカレートするだろう云々な話をしていたが、たぶん、時間の問題だろう。
戦時ですらバイオレンスな言動があったのた。
その初めがあったように、何かが隠されようと覆われるていようと、やっても問題ない、という感じが増え出せば容易にエスカレートするはずだ。
U師匠などはそこらへんの妙・・・どうやって人は暴力がエスカレートし、どうすれば人は壊れるのか、戦時の人は「感じ」として経験していたという。
しかし、まぁ、いまの世の中にあるハラスメントの類(たぐい)は人をギリギリまでおちょくるタイプの暴力・・・そんなのが溢れている。
その上、暴力出した方が悪いだとか精査されることなく断罪的に言われる。
我慢比べみたいな阿呆なことがあちこち行われている。
程度、塩梅、具合を見るなど、ほどほどが無くなったと私は感じる。
「このせか」などは「いつの時代でものほほん」とできる人間には良いのかもしれない。
あるいは、戦争作品群の暗さを払拭したいという人間にはもってこいなのかもしれない。
だけど、あの楽観さ、のほほんとした感じについていけないのは私の感性が捻くれているからだろうか?
中学社会ですらよく分からない人間が口出ししてはいけないのかもしれないが。