シャンサイ騒ぎ
感情論で動かされるのは昔からだ。
逆に言えば大切なことや本質をそれほど追求する文化ではない。
ゆえに大切なこと…たとえばシリアスなことやデリケートなことをネガティブにサラッと言ってしまえる楽観さがある。
もし、これが中東ならそうはいくまい。
宗教と生活が厳格に密接し、タブーを著しく守るのだから、軽率な言動はできるはずがない。
某氏がシャンサイ盗られたで騒ぎになった。
結局は身内の仕業だったらしいが、騒ぎの過程に他人を巻き込んだ。
巻き込んだとはいえ、たぶん冗談か何かのノリだったのだろう。冗談を言う相手を間違えただの、相手が基地外だの、世間も何故か某氏を擁護した。
では、何故冗談を振ったのか?
許されると思ったのだろう。
ヤツならいい(レベルや属性)のキャラだから…くらいのノリがあったのかもしれない。
(´・ω・`)「何でもノリで済ますんだよなぁ」
振られた方のM氏は反論したり、それはヘイト(自分でなくてもたとえ外人にも失礼だろう)だろうと、頑張っていたが、世間は某氏を擁護しM氏を粗雑に扱っていた。
某氏の「〇〇すんません、終わり」みたいなやり方は禊だろう。
ポンニチ芙蓉ランドにありがちな、そこで終わらせ両者仲直りみたいな「ノリ」だろう。
この時、大事なのは「終わらせる」ことが大事なので、加害者はともかく被害者の感情、尊厳、価値は問題にされない、という点にある。
だから、未開文化といわれるのだ。
民主主義は多様性を確保することにあり、多数決が大事にされることではない。
未開は他者、集団と自己が未分化な状態であり、個人があたかも集団能であり続ける状態をいう。
個人を大事にしない。
あるいは、いま注目されている人間を可愛がるようなものだ。
某氏などはそれに当たり、たとえ言動に誤ちがあったとしても「味方のような文脈的」を持ち、寄り添う人間がとれほどいることか?
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あとは、専門家(専門知)が軽視され過ぎである。
考える人間の脳はそれなりの時間が経って練られており、それなりのことをいう知識がある。
それを吹き飛ばすには「だから何なの?」で十分なのだ。
それってそんなに必要なの?とか、何になるわけ?などといえば・・・ディベート形式に話を持ち込めば、強い方が勝つに決まっている。
だから、いま「すがすがしい論破」か好まれるのだ。
知識人や専門家は論破するものではない。
いままでの構築や積み重ねでできているのだ。
どうやら、いまは話し合い構築していくより、強く説得力に長けた言葉が蔓延しているように感じる。
たぶん…いや、そこには常識とか、程度、加減というのがありそうにない。
相手を言い負かす言葉など武器であり凶器でもある。
誰か言いやすい相手を選んで、厄介なことを振るのは何もならない。