わからなくは…(生保編②)
私は違うけど、私の周りには生保じたいが「穀潰し的」に考えているのは多い。
あのままじゃ、国が潰れるよ!と。
まぁ、ホンネはわからん。
もし、自分が不自由になったとき、潔く弱くなり死んでいけるか?なんて考えちゃいないだろう。
むしろ、見ないようにして今を生きている。
短期的な見かただ。
粗雑なはなし、窮地に陥ったときの作法を怠ったのがいまだろう。
いや、何も不自由してろ!なんてことではない。
あたかも、タダで天からカネが降ってきたみたいな考えがあるから、これほどまで生保バッシングかあるのではないか?
ホントの弱車かサボりか?どうかなんてわからん。
見極めるのさえめんどうであり、誰がやんの?な話になる。
むしろ、監視カメラで見張ってるわけにもいかない。
ゆえに、一律与えておきましょう、となる。
医療者というのは、患者の自発性や元気を損なわせないことがいちばんである。
ゆえに、そのためにラブホやパチスロが生保の指定金額ないでやりくりできるのなら、良いということがある。
生保で(楽しみながら)いかに面白おかしくしようならできなくはないということだ。
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身近な人が賃金変わんないんだから、いくら頑張っても本質、仕方ないでしょう!という。
正論である。
むしろ、頑張った分だけ実になるなら分かりやすいが、システム上、上下に別れてしまっているのだから、いまは忍耐のときである(※)。
(※)いつ終わるかは知らん。
システム上の上下とは、アレよ。
上級国民とか、旧称勝ち組とか言われてたのよ。
もちろん、流れを作ったのは経営者の問題だろうが、(新自由主義からの)流れに同意したのだから、二重に罪作りでもある。
インフラさえ、民間になれば私は泥水を啜るかもしれない。
公園などの水道の横にコイン入れがあり、定量で水が買えるようになれば、まぁ、生きづらくなるだろうね。
よく、海外ではスタンダードだという声がある。
しかし、水が無料のいいところと海外との違いが分かっていない。
ここは、なぜ自分らはこんな稼いでタダで水を配るとは何事か!という根性が見え隠れする。
ミネラルウォーターを買えばいいのだ早い話。
また、賃金など変わらん、としたら次に頑張っても仕方ないのが分かっているのだから、その中でやりくりするしかないのだ。
それを、ムリに働かないヤツ、サボってそうなヤツを粗探しするのは賢くない。
頑張っても、実にならない立場にあるからだ。
そんな囲いのなかで粗探ししてもムダである。
いまや、非正規ですら「職人」と言われる時代になった。
職人も先進技術で追いつかないこともある。
先進技術が次の時代の職人に代わる。
銀職(※)ですら元職人がいるとされ、その腕前はその道でない者は敵わない。
(※)シルバー人材
いや、非正規じたいが階級だろう。
重要ポストでないとされ、計画的な仕事はありえない。
ゆえに、ルーチンが多くなる。
これを、人間機械という。
わからなくは…(生保編)
生保減額が中止されたという。
生存権に当たるとされ減らすのは餓死に繋がるのか?
( ´Д`)y━・~
医療費無料だよ~彼ら?
某コメなんか見ると芋づる式に、アンチなコメントが炸裂する。
なかでも、ただでいい思いさせんなとか。
パチスロ中読者にしてどーする?
コッチは苦しい思いしてんのに何様!
・・・みたいなのが、印象的だったのをまとめてみた。
(´・ω・`)「特に3番目はわからなくは…」
見ようによっては、アンチテーゼというか、風潮への皮肉というか、パロディというか…
私は正直、ハラスメントなどは虐待や犯罪の類(たぐい)だと思っている。
老若男女…上からも下からも、イチャモン付けたり、嫌味言ったり、後ろから蹴飛ばしたりなど、教育や注意、冗談だとか、やり返したとか、今は悪質である。
残酷なまでにやっていることが残酷であり、救いようがない。
いや、救えばコチラが目をつけられる。
報復がイヤだから誰も関わらない。
だから、空気読み。
同調同圧にイヤでも加担しなくてはならなくなる。
倫理も程度も、加減も、大概にせーよもない。
たかが、カネを稼ぐことがこれほどまでハイレベルになるとは思ってもみなかった。
半分は天引きされるし、比べてみれば生保になった方がいかにお買得か?
(´ρ`*)ゴホン
わからん。
生保もらってその内容まで確認するのはどーか?
タダ飯喰わせて貰って医療費までタダときたら、まともに働いている人間からクレームが来るのはまっとうにも見える。
しかし、使い道の内容が分からないからこそ、プライバシーが守られていると言えなくない。
まえに、生保でラブホに行って炎上したケースがある。
これは、時代がおおらかになったせいでもあるし、黙っておけばいいものを黙らず言ってしまう「見てくれ」があるから、紛らわしいことになる。
個人が楽しんで何が悪い?という新自由主義の響きに思えなくない。
どうなら、この傾向は上から下までそうなってきているようだ。
というか「個人が楽しんで何が悪い?」と開き直るのに慣れた感じがある。
不良の消滅により、時代のスタンダードな若いのが容易にキレるというのを活用しているように思う。
行儀の悪さも自由なら、それが普通…より中の上くらいの人間が「自分を出せる」ことが、平気になってきたようだ。
上記・・・この手の倫理(マナー)は遅れている。
いや、遅れる必要を無くしてしまったように見える。
たぶん、言う方が野暮なのだろう。
医療者にせよ、患者の自発性を損なわせないために、ラブホにいこうがパチスロやろうがいいじゃないか?というのがいる。
(いいじゃねえか?)
吉原を出す
鬼減の刃(※)で遊郭編をやる事が問題になっている。
大人コミックでも、その手の描写はあると肯定派はいう。
まぁ、その通りだろう。
私の想いからすれば…
ホント、自由になったものねぇ( ´Д`)y━・~
で、ある。
作る方も見る方も。
(※)「減」←(げん)だからねー
大雑把な要点、というか遊郭にて問題点が隠されているだろう・・・遊郭が問題の真相にあるというのは、作り手のニュアンスだろう(たぶん)。
表現者が何表現してもいいじゃねえか?
もっといえば、露骨になったともいえる。
逆にいえば、露骨に表現できる。
たとえば、ヒロヒト写真を燃やせるのだから、それくらいのことはできるだろうくらいの勢いか?
あとは、大人の見るもの、子供の見るものの見境が無くなったとも言える。
いいのかどうかは知らないが、千と干尋(※)を越すくらい知れ渡ったのだ。
老若男女が観る可能性は高い。
(※)干尋←干(干す)だからねー
識者からは、昔の人が居なくなったからできるのだ、という意見もわからなくない。
戦争の「妙」を知らないのが増えたから、人間関係の加減の知らなさや、歴史改竄などをやるように、その場の雰囲気…生きるか死ぬか?の雰囲気を知らないから、そういう事ができるのだ、という。
だから、ハラスメント(虐待や犯罪)がまかり通るのだ…な考えに繋げられる。
なお、私はハラスメントに至ってはアレ犯罪と見ている。
正論、矯正、教え、などを通して、オブラートに包んで巧妙に言動の暴力を振るう。
実に人間というのは賢い生き物なんだろう。
遊郭については、身売りの過去を私は知っている。
ハロワの人間が風俗で身を立てれば、やっていけるでしょ!という、お説教があったのを知っている。
また、過去には3Kという仕事観もあった。
きたない、きつい…後なんだっけ?
気持ち悪いだっけ?
風紀というか、非言語というか、なるべくなら、やらないでおきたいことというのはこの世にある。
できればやりたくない。
仕方なく、身売りしたなんてのはやっぱ何となくマズイ。
そういうのを語るのも、聞くのもないから、作家は挑戦し表現しようとしてるのかもしれない。
正直、わからん。
よしもと某女史によれば、水商売はどことなく不健康な感じになっていくようだ。
身体って精神や身体の含む器(うつわ)だからね。
疲れ方も、昼の仕事とは別の疲労を感じるのかもしれない。
さきの、宮崎監督の作品で、暗に遊郭を表現していると、ニュアンスがされるが、そういう見方もできる。
だから、なに?と言われても仕方ないのだけど、宮崎監督は感想者に猶予を与えている。
卑猥なイメージができることも、明るい解釈ができることも。
自身、昔ながらの生活感を目指して武蔵野に何か町を作ろう云々していたから、子供に対して残酷な振る舞いはしないはず(だと思う)。
その分、遊郭編はストレートだ。
より、真っ直ぐでクリアな分かりやすい時代受けを狙っているにも見えなく無い。
遊郭で問題になった→これは、分かりやすい。
まぁ、そこまで頭叩かれないと分からないのが出てきた、とも言えるかもしれない。
これを「間」が無くなったともいえるし、観る側に想像力に問題(※)が出てきたともいえる。
生活の妙……または間でもいいんだけど、察するとか、拍子を読むなんての、無くなったものね。
(※)いい悪いじゃなく、新たな問題みたいな
リモート、テレワークは結局…
まともに働ける人間を見ると化け物のように感じることがある。
「まとも」というが、なんというかその場の波に乗れるような人間とでもいおうか。
集団のなかで話せて、からかいあったり、誰かをイジメてスッキリしたり、注目の的になって自分を満足させたり、と。
集団というのに、上手く…完全にはムリだろうけれど、それなりにやっていけるのは才能だろうと思う。
もっといえば集団の性質みたいなものを、非言語や言語でもって感知するのが上手いヤツ。
ある意味、学校はともかく会社なんかは、体育会系(※)なノリがあって、自分を埋没させた方が生きやすいというのはある。
その分、没個性的にはなるが、上手い生存戦略だろう。
(※)極端にいえば軍隊。
リモート・テレワークで苦しみがとれたという人がいるという。
あるいは、その分家庭で気を使うから大変という人も出ているらしい。
変な言い方をすれば、工夫や作法みたいなものが求められている様に見えなくはない。
不自由な中での工夫。
病原体は人智を超える。
文化や政(まつりごと)さえも越え、死人すら出す。
しかし、残酷なのはそういう未知なるものがあっても、目をそらそうとする人間側にある。
疫病下で、いまだに…しかも、(疫病以前のように)当たり前のように働かせるところなどある。
しかし「まとも」というが、要はその集団内でいかに自分を出せるか?が叶った人間ではないか。
強者。
残念なことに、これは理屈ではない。
たぶん、放っておけば強きがその場を制するのが道理なのだろう。
それを、文化(とくにヌポン)は見ないものとする。
粗雑にいえば、問題(厄介な弱者)を力ずくで排除できる、技能やパワーのある存在がその場を制する。
なぜ、リモートがなされないか?
現場の仕事…人間がいないとできないことがあるからだろう。
それを「業(ごう)」とした場合、それをしなければ喰っていけない、そんな立場から解放されない。
あとは、相互監視がこれほど広まったともいえる。
サボっているやつはズルい、と。
お陰で自動的に「頑張って当たり前」な環境がいかにスタンダードになったことか!
また、自動的に働くことは健康的であるとか、病的なことはプライベートでなったと…その見方が歪んでいる。
一様性は悪いという学者は居るが、その理由は文化というが、私は保身のためだと思う。
身を守るため。
要はみんな同じことしてないと叩かれるのを避けるためであろう。
排除のやり方は意外と攻撃性が高く、その度合いはストレスフル極まりないはずだ。
料理も創作活動だが…
疲れた(ノд-`)
肉体労働は身体だけでなく目も疲れるのよ。
肉体だけしか使わないとはいえ、判断やその場での決断力を必要とされるから、目も使う。
視覚は脳と繋がっているようだ。
目を使い脳を使うことで相互に疲れがでる。
帰ってきてメシ。
一方で、大根、ヤマイモ、シメジなどを湯掻いて、アクをとる。
干しかまぼこ、ちくわなども入れ和風に味を整えていく。
すると…
熱厚揚げ入りごった煮🍲
カロチンやリコピンがなくてバランスが悪いが後日、1ヶ月分のリコピンを摂るから問題ない。
和風味がいいね。
喰いやすい。
炊飯ジャーのミックス米が炊き上がった。
そこに、雑魚を放り込み混ぜ混ぜする。
粒粒はチアシードであり砂粒ではありません。
何気にチアシードも高級品で不飽和脂肪酸(Ω-3脂肪酸)が含まれ、身体に良いとされる。
もちろん、私には手が届かない代物だ。
ジャパンミートの値引き棚にて、捨て値で手に入れたものだ。
消費期限はいつのものかは見ない。
害がないなら問題ない。
見た目は蚤(ノミ)のようだが、チアシード。
これでまた、チアシードが食べられなくなるのが出てくるだろう。
見た目が小さな蟲のようで。
プチプチした食感にじゃこの海鮮臭さ。
カルシウムと食物繊維が摂れて好都合だ。
もちろん、残りのおにぎりは冷凍して仕事の昼に食べるのだ。
沖縄で豚は捨てるところがないという。
無駄にしない思想はこんなところでも生きている。
いや、私はしまんちゅ(沖縄人)ではないよ。
先行世代は…
若い子がとんでもないことをするという。
だけど、考えてみればそれが許されるからだ。
許される下地があるのであって、それが次世代の常識なりルール(民間的な)になり、仲間内のモラルになったりする。
就職氷河期などは、ある種の先行世代であり次世代への下敷きにもなっている。
要は前例だ。
前例…短期的な歴史であり、近い過去である。
より、遠くの古い過去はイメージするしかないが、近しい過去未来に対しては何らかの価値判断をしやすくなる。
就職試験など、何やっていたんだ?アイツら?なんてのはいくらでも言える。当時の有利な条件をいくつかヒョイヒョイと用意すれば、当然何だアイツら?になる。
たぶん、いや…ホントに自殺したとしても、弱いヤツだったんだ、で落ち着くだろう。
粗雑な例えを使ったが、ひとつの悪例(?)はある意味実験的でもある。
血も涙もない上級管理職みたいな存在でさえ、そこからより有利な条件を次に試していくだろう。
しかし、当然ながらフツーというか、一般的にも過去の事例は「そういうこともあったんだよ」として、微かに記憶されていくだろう。
まぁ、野暮ったい話、昔の常識やモラルなんかは使えなくなって当然ともいえよう。
なんせ、ソッチ方面の学者らはヌポンを「次々と変わりゆく勢い」として、文化には変化の激しい性質があるとして見ている。
河合某は根幹の部分は変わらんと言った。
しかし、先に医療心理師を国家資格でとられた。
根幹は変わらないが事柄をチョイスする部分では、その変化は激しく、流行りのようなものだ。
なるほど、心理学でさえ流行りとして消費される。
早いはなし、消費というか流行に左右されてしまうのだ。
仕事だってそうだ。
いまはYouTuberですら飽和(バブル)状態で、新しいメディアに期待がかかっている。
子供の夢の上位が一時期YouTuberだといい、医者では無いという話が出た。
華やかだからな。目立てるし。
このさき、どうなるかはわからない。
創作家の本を読む(坂口氏の場合)
坂口氏は多才だ。
アーティストというと歌を思い浮かべるが、真のアーティストは多才かつ、何でも創ってしまう。
編み物、料理、文章、絵(パステル)、ギター(!)。
思考の沈殿の仕方も実に…壺の中で熟成されるような哲学を生みだす。
(´-ω-`)「真似できないな」
料理本からパステル画、出版、ライブ・・・産み出すモノで喰っていけるなんて凄いと思う。
まずは、子供の頃好きだったこと…元気に、集中できたのは何か?から始めて、見つけたら、それをひたすら追求し、作品にしていく。
商用など考えない。
いましている苦痛が「仕事」なら今すぐ辞めて、スタートするよう書いている。
福祉を貰いながら生み出していく手段を提供している。
(´・ω・`)「・・・・・・」
ツイッタフォロワー数10万越えていて、真似するのがいないと限らないだろうけど、できるやついるのかな?
本書で「現実」というものを目にする。
現実とは、決まり事、共同幻想、ファッショ、多数決、ルール、常識、掟…そういう物事に近いと私は読んだ。
現実…世の中というのは実は要求してくるものがあり、それに対して応えるというのが「個人(の考え)」ではないか?
それを行き過ぎたのが全八の「人という字は支え合って云々」という、人間関係に重きを置いた考え方になってくるのだろう。
まさに、人間教(世間教)。
著者は躁鬱だったようだ。
いまは波が落ち着いているという。
というか、自分の創作活動をすることで落ち着いた様子だ。
ゲーテのようだ。
ちなみにチエホフは強迫症だったらしい。
わからない。
というのも、現実から零れ落ちるような人間…病者、性格異常、その他の生きづらさを持つ者というのは、著者でいうところの現実(世間≒現世)から離れられるヤツだという。
逆にいえばさほど生きられる…苦なく生きられる(?)というのは、現実とマッチしているのだといえる。
もちろん、生きやすさ、生きづらさはグラデーションがあるだろうし、TPOにより難易は変わってくるはずだ。
誰しも不況、不況といいながら、ブツブツ文句を垂れときながら、それがストレス発散効果が無くないともいえる。
死ぬほど仕事をがいやでも、何とかやっていられるのが、大抵の人間ではないか?と思うのだが、一方では私の感じ(直感)では分からないのだ。
しかし、現実(≒世間)との妥協点や折り合いをつけられるのは、歳をいった経験を積んだ年配者や、現実を早く知ってしまった早熟な人間ではなかろうか?
特に賢い者の場合、その観察力が優れており、物事の道理というか成行きを良く知っていることがある。
それは多分、所生になるのかもしれないが、使いようによっては、想像性や直感力にも繋がる。
経験値か才能の違いだろう。